「あとから来る者のために」
あとから来る者のために
田畑を耕し
種を用意しておくのだ
山を
川を
海を
きれいにしておくのだ
ああ
あとから来る者のために
苦労をし
我慢をし
みなそれぞれの力を傾けるのだ
あとからあとから続いてくる
あの可愛い者たちのために
みなそれぞれ自分にできる
なにかをしてゆくのだ
これは、坂村真民が92歳の時の詩で、大東出版社「坂村真民全詩集 第八巻」より引用させていただきました。
私は愛媛県松山市に住むが、隣の陶芸の町「砥部町」の坂村真民記念館でこの誌に出会った。古民家とは古い住居のことを指すが、それを保存する目的はこの誌にあるように「あとからくる者のため」=「未来の子どもたちのため」に必要なことだと感銘を受けました。
伝統構法(でんとうこうほう)と在来工法(ざいらいこうほう)のメリットについて
1、伝統構法住宅のメリット
夏を快適に過ごす先人の知恵を学べる住宅
地震の力を上手に逃がす免震的構造
地産地消の循環型建築
四季の移り変わりを感じ、自然との共生ができる空間
自然素材使用による人体に安心な空間
開放的な間取りによる地域とのコミュニケーションが取れる住宅
可変性に優れた就寝一体の住宅
来訪者を気持ちよくお迎えする考え方
家族の集いを促し、家族の気配を感じる現在の欧米型の個人主義住宅とは対極の家族での団欒を重視する住宅
2、伝統構法住宅のデメリット
気密性、断熱性の低さによる冬の寒さ
お客様中心の家長主義的間取りは現在のライフスタイルに合わない
室内の暗さ
3、在来工法住宅のメリット
現在の住宅に比べて国産自然乾燥材の使用割合が高く長寿命である
中古住宅購入時には安く程度のいいものが手に入りやすい
現在のライフスタイルと近い間取りは使い勝手がいい
可変性に優れた就寝分離の住宅
4、在来工法住宅のデメリット
耐震基準が明確でなく、地震の際の安全性確保の改修が必要
メンテンス状況により物件コンディションに格差が大きい
設備などの交換時期が来ている
古民家の軒の出は夏の日差しが室内に入るのを防ぎ、太陽高度が下がる冬場は室内に日差しを入れる先人の知恵である…
古民家とは、
国の登録有形文化財制度に合わせて、築50年以上経過した、
木造軸組構法の伝統構法と在来工法の住宅とする。
一般的な建築工法について。
骨組みに木を使うものとしては木造軸組工法と木造枠組工法の二種類があります。
1,木造軸組工法=伝統構法や在来工法は柱や梁などの骨組みに木材を使用。 →建築後50年を経過すれば古民家となる。
大工の技量により品質にばらつきがでる。日本の気候風土に合わせて進化してきた工法で、
間取りの自由度や増改築などが用意におこなえる。
2,木造枠組工法(もくぞうわくぐみこうほう)=ツーバイフォー工法と呼ばれる枠組みで壁や床を造り組み立てるアメリカから導入された工法で木造軸組構造より地震に強いとされる。木質パネルを使用したハウスメーカーの商品などもある。木造軸組工法は1日で屋根の形まで作られるが、ツーバイフォー工法は1階床から順番に造り上げるため途中で雨が降ると構造材が濡れる。大工の技量に関係なく安定した品質が得れる。しかし間取りの自由度は低い。
骨組みが木でないものはハウスメーカーでよく採用されているプレハブ工法や規模の大きな住宅で用いられる鉄筋コンクリートや鉄鋼造などがある。
1,プレハブ工法=軽量鉄骨などを使い工場で生産され現地で組み立てられるもの。柱や梁などの構造体が6ミリ以下の厚みの鋼材で構成される。
集成材と呼ばれる木材を加圧接着した構造材で作られるプレハブ住宅もある。
工場での大量生産で一定の品質を確保でき、また工事期間も短くて済む。しかし、規格化されているがゆえ間取りや寸法の自由度は低く、他社の住宅は構造が不明なため、部材の調達ができないなど建てた会社以外ではメンテナンスができない。
2,重量鉄骨造=6ミリ以上の厚みのある鉄骨を使いハウスメーカー以外でも広く建てられている工法。鉄骨部分が熱橋(ねっきょう)となり、断熱に関しては不利。北海道などの寒冷地にはあまり向かないとされる。木造軸組工法と同じく、柱や梁で骨組みを造る構造をラーメン構造といい、ラーメンとはドイツ語で枠という意味。木造住宅などに比べコストは掛かるが間取りの自由度は高い。
3, 鉄筋コンクリート造=RC造と呼ばれ、コンクリートに鉄筋を入れて柱や梁、床などを造る。コンクリートの圧縮強さと鉄筋のしなやかさを併せ持ち、耐震性、耐久性に優れている。重要鉄骨と同じくラーメン構造で建築される場合と壁に強度を持たせる壁構造で造られる。規定通り施工されれば非常に頑強な建物となるが、ばらつきが施工により出やすい。間取りの自由度はラーメン構造であれば、柱の位置を考慮することで、間仕切りは自由だが、壁構造の場合は自由度が少なく、後のリフォームは困難である。
伝統構法の特徴について。
伝統構法は現在残っている建築工法のなかでもっとも歴史があり、気候風土に合わせてより住みやすく改良が加えられてきた工法である。古民家はこの伝統構法で建築されているものが多いが伝統構法は建築基準法制定前から建てられているが建築基準法にその規定が記載されておらず建築士でもその構造を学ぶ機会が少ない。
伝統構法の特徴としては、
1、筋違い、火打をほぼ使わず、足固め、敷き土台、差し鴨居、梁などの階層的な横架材による剛性確保
2、玉石基礎による礎石基礎
3、木部の仕口(しくち)の「めりこみ」によるピン接合
4、大黒柱(だいこくはしら)の存在
などである。
再活用の視点で捉えると、
・大断面の大きな部材を多く用いるため、部材に希少性が高い。
・接合部に金物をもちいず、継ぎ手(つぎて)・仕口の接合により部材損傷が少なく、端部(たんぶ)まで再活用可能。
・部材が長い年月をかけ乾燥しており、くるいが少なく、強度も高い。
・軸組みの大部分が露出しており、部材の状態を把握しやすい。
・長い歴史の中で培われてきた構法であり、再利用の実績が豊富であり再活用には適した構法であると言える。
伝統構法の特徴について。
伝統構法は現在残っている建築工法のなかでもっとも歴史があり、気候風土に合わせてより住みやすく改良が加えられてきた工法である。古民家はこの伝統構法で建築されているものが多いが伝統構法は建築基準法制定前から建てられているが建築基準法にその規定が記載されておらず建築士でもその構造を学ぶ機会が少ない。
伝統構法の特徴としては、
1、筋違い、火打をほぼ使わず、足固め、敷き土台、差し鴨居、梁などの階層的な横架材による剛性確保
2、玉石基礎による礎石基礎
3、木部の仕口(しくち)の「めりこみ」によるピン接合
4、大黒柱(だいこくはしら)の存在
などである。
再活用の視点で捉えると、
・大断面の大きな部材を多く用いるため、部材に希少性が高い。
・接合部に金物をもちいず、継ぎ手(つぎて)・仕口の接合により部材損傷が少なく、
端部(たんぶ)まで再活用可能。
・部材が長い年月をかけ乾燥しており、くるいが少なく、強度も高い。
・軸組みの大部分が露出しており、部材の状態を把握しやすい。
・長い歴史の中で培われてきた構法であり、再利用の実績が豊富であり再活用には適した構法で
あると言える。
在来工法について。
在来工法は伝統構法から派生した木造軸組構法だが、建築基準法により細かく仕様が定められている。この仕様は幾度かの建築基準法改正により信頼性が増してきており、特に昭和56年の法改正以後建築されるものは新耐震基準と呼ばれ、耐震に関して一定の安全水準に達しているとされる。
在来構法の特徴は筋交いや付属金物や構造合板で壁量を確保し地震に対して剛な構造で対抗する建築構法である。現在建築されている木造軸組構法の99%が在来構法である。
在来工法=コンクリート布基礎・アンカーボルト・筋交い・火打ち
対して伝統構法は=渡りアゴ・甲乙梁(こうおつばり)・折置き組(おりおきぐみ)・台持ち継ぎ(だいもちつぎ)・登梁(のぼりばり)
伝統構法の特徴は免震的な構造であり、壁量に頼らず柱や梁などの木組みで構造耐力を生み出す構法で、地震の際には建物が揺れる事で地震力を逃がして倒壊を防ぐ考え方である。
つまり、
在来構法=耐震的「剛構造」
伝統構法=免震的「柔構造」
同じ木造軸組構造であるが、地震時に建物が揺れ、変形し地震のエネルギーを吸収しようと考えられた伝統構法に対し、在来工法は変形を出来るだけ抑える構造であり、根本的に考え方は真逆に近い。
伝統構法と在来工法の地震に対する考え方の違いについて。
古民家には伝統構法と在来工法の二種類含まれるが、同じ骨組みに木を使うが地震に対する抵抗の考え方が実は正反対となる。地震が起こった際に伝統構法は免震的(制震的)構造で力を吸収し逃すのに対し、在来工法は耐震的構造で揺れを伝えない構造と考えれば理解しやすい。
伝統構法は締め固めた地面に石を置き、その上に柱を建てる。壁は柱と柱を通し貫で繋ぎ、竹小舞(たけこまい)に土壁を塗る。地震等の外力が加わった場合、土壁が壊れることで外力を吸収し、木組だけで固められた構造体はしなり、土の上にのせた瓦が落下することで建物の復元力を助け、強い外力が加わり、柱が石からはずれたとしても構造体は壊れない。
一方で在来構法は地面と一体となった基礎に構造体が緊結されており、地震等の外力がそのまま構造体に伝わる。柱や梁は伝統構法ほど太い材を使っておらず、外力は耐力壁が負担し、建物の変形をできるだけ避ける構造である。
現在、我が国で建築されている木造軸組構法住宅の99%が在来工法であり、伝統構法は1%程度しかない。伝統構法は木組架構そのものであるから、長年にわたり受け継がれて来た型があり、それに居住性・現代性を求め、型を変形させてきている。構造そのものの美しさがある建物である。
今と昔の住まい方の違いについて、
伝統構法の建物の生活様式を簡潔に述べるなら、
就寝一体
お客様中心ということになる。
就寝一体とは、就寝分離の対義語として実は作った言葉である。
就寝分離は寝食分離ともいい、睡眠を取る場所や団欒、家内仕事などをおのおのの部屋で分ける事や、親と子や、男女で部屋を別にして寝ることで、戦後、欧米の個人主義の考えと共に就寝分離の考えで間取りが変化した。
対して伝統構法は和室を思い出すと理解しやすいが、
畳の部屋でちゃぶ台を出して食事をとり、家族団欒を行い、寝る場合にはちゃぶ台を片付けて押入れから布団をだしてみんなで川の字で寝る。ひとつの部屋で重複した行為を行っており、和室はその用途に向いていたのである。
お客様中心の間取りとは古民家解體新書Ⅱの43Pから壱の十 農家住宅を見ていただきたのだが、そこに田の字の間取りを説明している。田の字の間取りは日本固有の間取りであり、間取りとしての原点でもある。各スペースを機能により固定化しその中でもオモテの部分がお客様が来られた時のみに使用する場所となる。このオモテ部分は庭が眺められて日当たりのいい一番いい場所に最も内装などにも趣向を凝らし予算をかけて作られた場所となる。オモテには床の間があり畳が敷かれた。畳は通常は収納しており、お客様が来られた時だけ敷いていたようである。
また玄関もオモテに作られるが、玄関はお客様と家の家長のみが使用でき、その他のものは土間や台所の勝手口から出入りしていた。お客様第一の家づくりだったのである。まさに日本のおもてなし文化の原点かもしれない。
古民家の歴史について。
日本の住宅の歴史は、はるか縄文時代にさかのぼる竪穴式住居となる。竪穴式住居とは地面を円形や方形に掘り、その中心に柱を建て、梁や垂木をつなぎあわせ家の骨組みを作り土や葦などの植物で屋根を葺いた建物で規模の大きなものは室町時代まで利用された。
屋根をいう漢字を見ると本来地面と由来のある根という字が使われている。古来日本の住まいに壁という概念がなかったためであろうと推測する。
鎌倉時代以降は掘立柱建物(高床式建築と平屋建物に大別される)といわれる柱を地面に埋めて建物をつくる工法が長く庶民の住宅で持ちいられており、17世紀後半以降に石の上に柱を建てる礎石建物、伝統構法が建てられるようになった。
石の上に柱を建てる礎石建物自体は中国や朝鮮半島より古く日本に伝わっていたが、限られた建物でしか用いられなかった。その理由としては、一つは自然災害の多い日本の気候風土では地面に掘った穴に柱を埋めて固定する掘立柱建築は、伝統構法の柔構造ではなく剛構造で、柱の太さに関係なくある程度地震や台風に耐えることが可能で、建築費も安くしかも技術的にも簡単だったので庶民の住宅に採用されてきた。それと国民性だと推測されるが、日本人は保守的で弥生時代以降ずっと採用されていた方法を変えようとはしなかったとされる。ただ寺院などの公共的な建物は大陸からの最新技術である石の上に柱を建てる礎石建物を採用し華やかな建築を残している。地面に柱を埋めた構造は埋められた部分は早く腐り柱の交換が必要となるが、交換しながらその工法を長期間維持できたのは豊富な森林資源があったためである。
中世以降は総柱型建物と言われる建物が主流になる。これは母屋(もや)という屋根を支える天井より上の構造の空間と、屋外空間の庇(ひさし)を持ち、内部空間は碁盤の目のように柱の間隔が2m~2.4m前後で統一された建物。
やがて柱と柱の間に間仕切り壁が設けられ、部屋として細分化され現在の住宅へと変化してきた。鎌倉時代の総柱型建物は石の上に柱を建てた礎石建物と掘立柱建物の両方が建てられており、礎石建物は格式高い武家屋敷(ぶけやしき)、庶民は掘立柱建物と区別されていた。
古民家は地方、立地、職業により様々な特徴がありますが、身分制度による住宅の形式で分類すると、大きく分けて農家や魚家、城下町や街道沿いに建てられた商家や町屋、武家の住まいである武家屋敷に分類できます。
各種類ごとの主な特徴を述べると、
農家住宅
田の字の間取り、茅葺 規模の大きなものは瓦葺の庄屋住宅となります。
農家住宅の規模の大きなものは庄屋屋敷と呼ばれ、敷地内には米蔵が建ち武家が訪問することから瓦葺屋根が許され中には武家屋敷よりも規模が大きく武装されたものもあります。
魚家
屋根を低く、強風を防ぐための石垣、水害を防ぐ高床式。
小屋裏に家財道具の保管場所。竹などの簀の子の床があります。
商家、町家
前面に店、後ろに住居や蔵。
税金が間口の幅でかけられていたため間口が狭く奥行のある「うなぎの寝床」
瓦葺きに卯建壁など防火構造。
京町家は3階建てもあります。
骨組みや屋根や天井を土で固めた「土蔵造り」と
外壁を板張りなどにした「町家造り」があります。
武家屋敷
鎌倉時代公家の寝殿造りから発展。
寝殿を中心に南に庭、東西に対屋(たいのや)を配置、渡殿(わたどの)で繋ぎます。
侍屋敷
城に近い程身分が高い。土壁、長屋門、式台、書院造の座敷
日本の住宅は長い歴史の中で構造も変遷してきたが(壱の八 古民家の歴史参照)軸組自体の構造の変遷をみると、伝統構法では当初は柱の上部に頭貫(あたまぬき)と呼ばれる横木を通す事で柱の倒壊を防いでいたが、その後長押(なげし)を柱の高い部分に取り付け補強し、頭貫と長押の両方で柱をつなげるようになった。そして壁や床が作られると貫(ぬき)を一定の間隔で通し、足元にも足固め(あしがため)といわれる貫がもちいられ足元の開きを抑制するように変わってきている。
「屋根」は建物の一番高い部分にある部位だが、根という地面に由来のある漢字が使われているのは竪穴式住居の頃には壁という概念がなかったためと壱の八 古民家の歴史で書いていますが、それでは「壁」とはどういうものでしょうか。
「壁」という言葉の語源は、すみか、ありか、仮の「か」と、隔てるという意味である「へ」が合わさり、室を仮に隔てるものが語源とされています。
海外は壁をはじめに造り最後に屋根を造る建築方法がとられていますが、雨の多い日本の住宅は骨組みを建てたあとに屋根を先に作りその後に壁を造ります。
建築基準法制定後の在来構法では壁の中に入れる筋交いが構造的にも重要なものですが、伝統構法では壁は空間を仕切る機能であり構造的に必要なものではなかったのです。
空間を後で仕切るから「間仕切り(まじきり)」という言葉も生まれたのです。
「ハレ」と「ケ」とは民俗学者の柳田國男氏によると、時間論をともなう日本人の伝統的な世界観で、民俗学や文化人類学においてハレ(晴れ、霽れ)は儀礼や祭、年中行事などの非日常を指し、ケ(褻)はふだんの生活である日常の状態を示し、衣食住や振る舞い、言葉遣いなどを区別した。
成人式、結婚式、葬式や催事など特別な日を「ハレ」の日といい、部屋の仕切りであるふすまを外し大広間にして昔は家で行事をおこなった。
「ハレ」の日は主催者も参列者も正装での参加が基本で、正装の色としては白色と黒色である。白色は万国共通で「清らかで聖なる色」で、日本の神道では「清め」の色でもある。かつて日本の女性は、婚礼で着用した白無垢を大切に保管し、その後最愛の連れ合いが旅立った時、白いまま袖を詰めて喪服とし、最後は本人の死装束とした。
一方の「ケ」は日常を表し、「ケ」とは「毛」であり、稲の穂の実りを指し、稲作文化とともに日本に伝わったか、日本独自に変化した考え方でもある。そして、「ケ」は「ケガレ」という言葉に変化する。作物が枯れたりする状態、「ケ・枯れ」とは、食物が枯れ収穫ができなくなることで、転じて日常性が破られることを意味し、忌み嫌われる言葉となった。
古民家の間取りも「ハレとケ」の考えが基本で、ドマ、オモテはハレのパブリック空間、ダイドコ、ナンドがケのプライベート空間にあたり、ハレの空間は非日常、来客や冠婚葬祭の場所、ケが日常生活をおこなう空間という区分となる。
「ゆひもやとはで、早苗とりてん」とは鎌倉時代の歌であるが、田植えや屋根の葺き替えなど多大な労力を必要とする作業を昔位は無償で労力や資金を提供する地域扶助の考え方「結(ゆい)」により実施していた証明である。
「結」の考え方はアジア圏において広く存在しているが、沖縄では「ゆいまーる」または「いまーる」と呼ばれる。「ゆい」は「結」と同じ相互扶助の事を示し、「まーる」は「回る」の意味で、順番に平等におこなわれていた証でもある。
そして「結」の対義語は、「やとう」あるいは「やとふ」で、「家問う」が原義とする「雇う」という考え方となっている。
地域扶助の考え方「結(ゆい)」とともに各集落には秩序維持のための青年組織なども存在し惣村(そうむら)と呼ばれる自治体制が鎌倉時代には形成された。
惣村は、原則として支配者の統治が建前であったが、これら支配者の規制を全て受け入れていた訳ではなく、支配者に対し権利の要求もおこなっていた。こうした要求活動を通じて惣村の自治権が強化され、反対に支配者側も惣村の了解が得られない限り、勝手に惣村への法令・規制を発布できない状況であった。
権利を持つ代わりに惣村独自の自警の必要が出てきて、惣掟(そうおきて)と呼ばれる、農民らが自主的に定めた惣村内部の法令が各地で生まれた。
惣掟は、村掟(むらおきて)、地下掟(じげおきて)、村法(そんぽう)ともいう。「結」と惣掟の関係性は不明であるが、「結」は風習や習慣的な温かみのある人と人の明文化されないつながりであるが、惣掟は明文化された規則で、その両輪でうまくいっていたのではないかと推測している。
総務省統計局が5年毎に実施する住宅・土地統計調査によると昭和25年以前に建築された防火構造でない一戸建ての木造住宅(伝統構法と考えられる住宅)は全国に121万5千棟余り残っており、昭和26年から35年の間に建築された防火構造でない一戸建ての木造住宅(在来工法と考えられる住宅)54万6千棟と合わせ、
古民家は概ね176万棟残っています。
5年前の平成20年度の調査時に比べ伝統構法は19%、在来工法は26%減少していますが、在来工法に比べ伝統構法の減少率が低いのは伝統構法のほうが良質で耐久性が高いからではないでしょうか。
古民家は住宅総数の全体の約16%を占めており、建築基準法制定以前の昭和25年以前の建物の割合が11%で且つ減少率も低いことを見ると、耐久性が高いと推測されるので、安心して住み続けていくためには地震に対しても安全が保証されるような耐震診断方法の確立と耐震改修を進めていく必要があります。
また同調査の空き家調査において全国に820万棟の空き家があり大きな問題になっています。
過疎地域、農山村漁村地域においては高齢化と過疎化の問題も深刻で、限界集落の消滅も予測され、元総務相で東大の増田寛也客員教授らが主催する民間組織日本創成会議の予想によると、2040年には全国1800市区町村の半分の存続が難しく、また国土交通省も全国6割の地域で2050年に人口が半分以下になるとしており、空き家古民家の有効活用は地方創生においても今後重要な課題となります。
民家という言葉が歴史上初めて出てきたのは鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」とされている。伊藤ていじ氏が書いた「民家は生きてきた」(鹿島出版会)の中で、1186年”源行家は逃亡して和泉国小木の民家にかくれた”と紹介されており、また民家という言葉は本来役人が”年貢をとりたてる士民の家”として使われた言葉であり、支配階級層が被支配者の住居について軽蔑して使われていたが、現在は反対の意味となり、海外から来る外国人にとっては”ミンカ”は崇拝の対象であると書かれている。
日本人と外国人のレジャーに関する考え方は異なっており、日本人は観光を目的とし、地域の特色や名所に興味をもつが短期間しか滞在しない。外国人は長期間その地で実際に生活し文化や風土を体感しようとするいわゆる「ロングスティ」の傾向がある。古民家を保存活用するにしても、自宅を改修しながら住み継いでいくことはむろん、ロングスティの施設としてや、移住定住を促進し、地域で空き家として活用されていない古民家を活用することも重要である。
移住定住とは都市から地方へ移り住むこと、いわゆる「田舎暮らし」を指すが、田舎への移住定住は現在二極化している。完全に移住する場合と、平日は都会で働き、休日に田舎の家で過ごすいわゆる「二地域居住(にちいききょじゅう)」と呼ばれるものである。
国土交通省が平成20年実施した「二地域居住等の実態アンケート」によると、古民家に暮らしたいユーザーは年配層だけでなく、30代の働き盛りの若い世代にも浸透しており、二地域居住等の普及率は全国で4.4%・197万世帯(うち二地域居住が2.4%・109万世帯、移住・定住が2.0%・88万世帯)だが、平成30年の普及率は13%・545万世帯へ推移、関連する市場規模が平成20年の約1.5兆円が平成30年には約6.5兆円へと拡大すると予測している。
アンケートでは30歳から39歳で田舎暮らしをしたいと考えている人は57%と半数を超えており、その背景として、賃金の上がらない現代は都会での高い家賃で生活が圧迫されている人々が田舎暮らしへの憧れを増しているのかも知れない。
古民家が二地域居住としても今後活躍の場が広がっていくことが予測される。
古民家解體新書IIのP91から94ページにかけて
日本建築の歴史について表組みで紹介しています。
試験範囲では無いのですが編集時にはかなり時間を費やした部分でもあります。
多くの建物の形式から何を記載し、何を残すのか。
歴史の中でよく扱われているものもあれば、
古民家の学習のためとして掲載した項目もあります。
その中で特に寺社仏閣の様式について多く掲載しています。
その意図は寺社仏閣についてはこの章以外には掲載していないからです。
古来、寺社仏閣建築物は公共的な意味合いが高く、
当時の最高の技術をもって建てられていました。
例えば世界最古の木造建築法隆寺は
当時としては最新の建築工法である礎石建てが用いられています。
古民家は掘立柱建築が中心で礎石建てが使われだしたのは17世紀でした。
それだけに将来流行る構造やデザインは寺社仏閣建築から予測可能でもありました。
時代ごとの寺社仏閣の特色をあげると、
古代は
・神明造(奥行きより幅が広い、掘建柱・切妻屋根・平入)
・大社造(正方形に近い宮殿、掘建柱・切妻屋根・妻入。屋根には優美な曲線)
・住吉造(大社造や神明造に比べ、床は低く破風は古式の直線形、切妻屋根・妻入)
の神社形式がありました。
飛鳥時代には、飛鳥様式と呼ばれる雲形肘木(くもがたひじき)(雲形くもがたの肘木)。
法隆寺に使われている
古代ギリシャ発祥の円柱の下部から上部にかけて徐々に細くした柱のエンタシスは
なぜギリシャから遠く離れた日本でも出現したのかは大きなミステリーだと思います。
奈良時代には三手先が天平様式として完成しましたし、
鎌倉時代に入ると禅宗の普及と合わせて
唐様という中国のデザインの影響を大きく受けたものが中心となりました。
室町時代には荘園化が進み武家の台頭とともに書院造りも発生しています。
歴史を建物の側から見てみるのも面白いと思います。
古民家が持続可能な住宅かを書かせていただきます。
1、古民家の骨組み木材は経年変化で強くなる。
千葉大学名誉教授の小原二郎氏はNHKブックスの「木の文化をさぐる」という本の中で、法隆寺古材は新材より強いとしている。「なぜなら木は伐り倒されてから200~300年までの間は、圧縮強さや剛性がじわじわとまして、二、三割も上昇し、その時期を過ぎて後、緩やかに下降しはじめるが、その下がりカーブのところに法隆寺材が位置していて、新材よりもなお一割くらい強いからである。バイオリンは古くなると音が冴えるというが、これはこの材質の変化で説明できる」
2、古民家に使用されている材料が木材、土、紙、植物、石などほとんどが自然素材であり周辺で採取が可能で、再利用ができる持続可能な材料。経済学者のハーマン・E・デイリーの三原則にもあるが、再生可能な資源は供給源の再生速度を超えることなく利用する仕組みが備わっている。
3、古民家は日本の気候風土に合わせて作られていおり、電気を使わなくとも夏場涼しいエコ住宅である。
外壁の漆喰は日射を反射し、軒の出は夏の日差しを遮り、床下や壁の少ない室内に風が通る構造である。古民家に庭がつきものなのも木立で冷やされた風を取り入れる工夫でもある。
4、木造住宅の欠点である腐朽や蟻害に対して、メンテナンスに優れた構造で、例え被害にあったとしても部材の交換で対応可能である。真壁構造で柱のコンディションが目視でき、腐朽した場合でも根継ぎなどの技術で一部の交換だけで建物を維持することができる。メンテナンスも住んでいる人で簡単にできるようになっており、関東学院大学 建築・環境学部 中島正夫教授にお聞きした話によると、和歌山南部地域は、台風対策として古民家でも床下を閉じているためシロアリ被害が多いが、その工夫として床組が分解でき、年に数回床組を日干しして管理することができるような構造になっているそうです。
世界最古の木造建築「法隆寺」の1300年以上たったヒノキの柱にカンナがけすると、真新しい檜と同じ爽やかな香りがしてくると言われる。
木材の持つ、時間の経過とともにどんどん熟成し、その強度を増してくるという特性に着目すると、古民家の構造体こそが超長期に渡り使用できる部材であり、それを上手く活用する方法と仕組みが必要となる。
木材は、木材腐朽菌により地面に近い部分から腐っていくが、腐った地面に近い部分を「根継ぎ(ねつぎ)」などの補修技術を用いることで劣化を一部分にとどめ、全体の寿命には影響を及ぼさない持続性を保っている。
土壁の土も古い土のほうがバクテリアが多く、藁の発酵を促進すると言われている。植物は再生される期間より長く使用すれば再生可能な資源であり、地産地消であれば輸送コストをかけずに環境負荷も小さくできる。
襖(ふすま)や障子(しょうじ)で簡易に間仕切る間取りは可変性に富み生活スタイルの変化に合わせて間取りを変更する事が可能で、出来るだけエネルギーを浪費しない工夫がある。
先人たちが残した知恵の塊である古民家を今こそ再評価する必要がある。
基本的に古民家は夏を快適に過ごすために様々な工夫が施されている。
・軒の長い出は夏の日射を遮り、冬は太陽の高度が下がることで日の光を室内に導き入れる。
・茅葺の大きな屋根は断熱効果がある。
・茅葺きの屋根は夕立の雨が染み込み、気化熱で建物を冷やす。
・漆喰の白い外壁は日射を反射し、熱容量の大きな土壁は夜間の冷気を蓄熱し昼間の温度上昇を防ぐ。
・木や畳や土壁は吸放湿性に優れ、調湿作用で夏の高温多湿を和らげる。
・壁のない間取りは風通しがよく室内の熱気を逃す。
・家の周りに植栽や池を配し、周辺の空気を冷やし室内に取り込む。
・建具も夏場は風通しのいい夏障子に交換し風通しをおこなう。
・床下が高く、空気が流れることで湿気や室内の温度上昇を防ぐ。
など日本の住宅は東南アジアの住居、高床式住居を似た部分が多く、日本の夏がいかに暑くて湿気が高く過ごしにくいものだったか、それに合わせて住まいが進化したのがわかると思う。
土や石灰(漆喰)を扱う工事を左官(さかん)という。左官工事は飛鳥時代(西暦500年代頃)から盛んに行われるようになり、石灰を利用した漆喰塗りは平安時代初め頃とされる。
戦国時代は防火や、防弾から建物を守るため城郭建築に採用され急速に発展した。その後、江戸時代に入り、火災の多い町を守るため益々左官工事は進化を続け、茶室、土蔵、数奇屋(すきや)など様々な建築に利用されてきた。
明治、大正と西洋建築が取り入れられるようになっても、漆喰塗りは衰えることなく、蛇腹(じゃばら)や鏝絵(こてえ)など内外の装飾にも積極的に利用された。
右官(うかん)という言葉は現在は使われないが、古くは大工のことを指したとされる。家を建てる現場には、棟梁(とうりょう)と左官と右官がおり、棟梁は総合責任者として全体を統括、左官が土関連の仕事を担当。そして右官が木関連の仕事を担当したとされる。しかし、棟梁が大工を兼ねるようになり、右官という呼び方は廃れた。
また別の説では、左官には「工」という字が使われており、「工」は、「仕事」「職人」「巧みな技」という意味があり、左官は土木工事職人とし、右官には「口」という字が含まれているので右官は事務職とする説もある。
また、日本では、右と左とでは、左の方が地位は高くなる。左大臣と右大臣なら左大臣の方が位が高く、左官と右官とでは左官の方が位が高いから右官が使われなくなったとの諸説残っている。
番匠師(ばんじょうし)という言葉も残っておりこれは現在の棟梁に当たる。番匠師は立烏帽子(たてえぼし)を被り、設計士、現場監督であり最高の技術者でもあった。
書院造りは室町時代に完成した住宅の様式の事。和風の住宅はある意味全て書院造の住宅といってもよく、強い影響を受けている。床の間のある座敷は書院造りのイメージだが、厳密には武家住宅の建物全体の様式で、古民家全体にも広くその影響を及ぼしており、
写真 京都市 銀閣寺 足利義政の書斎(同仁斎)
その特徴は、
床の間
床柱
違い棚
付け書院である。
数寄屋造りとは、数寄屋(すきや)と呼ばれる茶室を取り入れた住宅の事を差し、語源となった数寄屋とは茶の湯や生け花など風流を好み、本業とは別に茶の湯などに熱心だった数寄者(すきしゃ、すきもの)が好みに任せて作った家という意味がある。
数寄屋と呼ばれる茶室は安土桃山時代に生まれた庭に別棟として造られた四畳半以下の小さな建物で、格式張った豪華な装飾を嫌った数寄者が軽快で肩ひじ張らないものとして造った。書院造りの格式や様式を極力排し、外面ではなく内面を磨いてお客様をもてなすという茶人の精神を反映したシンプルで洗練された意匠になっている。具体的には、長押(なげし)などは省略し、柱も丸みを残した面皮(めんかわ)のあるものを使い、床の間も小規模で質素なものを作る。数寄屋造りの特徴として庇を長く、深く造り室内に深い影を作り出し陰翳(いんえい)を楽しむものとされる。
写真 滋賀県大津市 居初氏庭園(天然図画亭庭園)@663highland
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